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  4. アルコール関連問題のルーツとルール

エッセイ

人類にとって依存が問題になったのは、20数万年前の二足歩行に始まる、と私は思う。
というのは、ひとつは人類のみが大脳新皮質を保有している、つまりその分、体型の割には他の生命体より脳が大きいわけだ。そして、もうひとつ、人類は二足歩行になり背骨が垂直になったことから、四足歩行の時は背骨にぶら下げておけばよかった臓器が下にずり落ちるのを防ぐため、骨盤を頑丈にしなければならなくなった。そのことは、臓器がそこから抜け出ない様に、骨盤に存在する穴もできるだけ狭くしなければならないことを意味した。そして、産道もその一つである。そこに、狭い産道、そして、それを通過させる胎児の脳のサイズは、という課題が生じた。これを解決するために人類は子供を未熟児で生み、メスの前足、つまり母の手で一定期間保護するという行為を選択したのである。それは、成長・自立するまでに、依存が必要であることを意味した。

人類の営みの黎明期では、依存から自立の時期に関しては、概ね皆同じで、大きな差はなかったと思われる。しかし、時代がすすみ、個々の依存から自立への時期に、違いが出て来る様になってきた。つまり、母子が分離する時期に差異が生じるようになったのである。
早期に自立を強いられる仕組み・制度の中で成長する者、一方で、かなりの時間、依存環境の中で成長が許される者、と社会システムが複雑になればなるほど、その差は顕著に、そして多様になる。そこで、早期に自立を強いられ満たされないと感じた者は、依存の対象を他に求めたり、逆に、依存環境がかなり長期間保障された者では、自立の立ち遅れが様々な心のひずみを生み出したりしている。そういった双方の関係が混在する中で、今日いうところの、いじめ、虐待といった社会病理現象が生じてきた、といっていいのではなかろうか。ここまでが、実はアルコール関連問題のある意味ルーツである。

何故かというと、この依存と自立の課題を今日、上手く調節してくれ、バランスを取ってくれている代表的な薬(嗜好品)がアルコールなのである。
そんなアルコールが鎮静効果を有する薬物(麻薬)でありながら、正常使用、つまり合法薬物(麻薬)となったわけは、2009年4月20日のブログを再読していただきたい。そのキーワードは「飲酒文化」である。
しかし、現代社会では、ルール・法に従い我々は生活を営み、生命、財産が守られている。そこで、ここからは、この正常使用であるアルコール飲料のルールについて触れてみたい。
まず、憲法12条の権利の自由によって、アルコール飲料を飲むことは保障されている。ただ、飲まないという自由も保障されていることを忘れてはいけない。そして、その権利の乱用は許されていないことも認識しておかなければならない。その権利の乱用を踏まえて、未成年の飲酒は禁じられ、そして、今日問題になっている飲酒しての乗用車の運転禁止がある。さらに、酩酊、泥酔時の保護、健康被害に対する医療化についても、警察官職務執行法、医療法、精神保健福祉法で規定されている。だが、これが、適正に履行されているかは疑問がある。そのことに関しては、〝SMAPの草なぎ君の泥酔時の逮捕問題"、また2009年7月1日「情は法に従えるか?」など、これまでのブログで語っている。これもまた再読していただきたい。
この様にアルコール関連問題に関するルーツ、ルールが関係者間で十分理解されていないことから、最近の飲酒運転についての関係機関の処分、対策のあり方に、本当に見識のなさが散見されて仕方がない。たとえば、2007年5月、飲酒運転で免職とした、兵庫県の加西市元課長への懲戒処分は、最高裁で棄却され、その課長は復職を果たしている。また他にも各地で、飲酒運転、直ちに懲戒処分は「懲戒権の乱用」であるとの判断がなされている。これは、先に述べた憲法12条で認める「飲酒をするかどうかの選択の権利」からすれば当然のことである。
飲酒運転は、道路交通法で処分、それなりのペナルティーが科せられる。なら、人身、あるいは、はなはだしい物損の事故に至っていない場合は、懲戒処分でなく別の手立てを検討すべきでないだろうか...。
また、現職の警察官が飲酒運転事故をおこした福岡県警では、2009年9月16日の毎日新聞に―「酒依存」は治療命令―と。医療法では、受診、治療は当事者本人の選択であり、任意である。だから、治療命令、それは訓令ではない。よって、そんな強制力を伴う指示は、生命の危機が切迫している場合か、精神科の重篤な病状により判断能力が欠如している状態に限られているのである。加えて、治療命令、そしてそれに従わないと処分だとすれば、これまた、法的に問題がありそうな気がするのだが...。さらに記事を読みすすめると、『...過度の飲酒を避けるため、歓送迎会や仲間うちでの飲酒の際、「注がない、注がせない」を合言葉に酌をしないようよびかける。』とあった。私は驚いた。先程、再読をお願いした2009年4月20日のブログで、「...日本におけるその(飲酒文化の)代表的な行為はお酌である。宴席で前におかれた二合徳利を二人の客人が相互に注ぎ合う行為。これは二合の酒を一合ずつ平等に飲むことを意味する。それは、一人が飲みすぎないといったことで、健康飲酒にも繋がる。...そのような文化の下で飲酒する限りにおいては、皆無とは言わないがアルコールに関連した問題は今日ほどではなかったのである」と私は述べている。

アルコール関連問題の一つで、今一番の関心事である飲酒運転の取り締まり、対策を立てる警察がこれでは...と。飲酒文化は形骸化していると、私は同じ4月20日のブログ内で指摘していたが、間違っていなかったようである。

ひとつ、これからはアルコール関連問題のルーツとルールをしっかり踏まえた識者らによって、アルコール関連問題の法と制度の整備をお願いしたいものである。アルコール飲料よりも明らかに健康被害、社会問題が少ないはずの同じ正常使用であるタバコがあれだけ規制を受けているのに、アルコール関連問題への対策、規制に関しては、何故、こんなに...であろうか。これも以前ブログで語ったかな。