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昭和22年から平成22年

16

(火)

02月

エッセイ

私は昭和22年1月5日生まれである。昭和は63年までだった。そして、今年は平成22年。と言うことは、同じ22の数の引き算、足し算で私は63歳だ。今年は私の同学年にとって非常に分かりやすい年である。だが、惜しいことに私は1月生まれだから、私の同級生は昭和21年4月1日から昭和22年3月31日である。よって、この昭和と平成の22の引き算、足し算で年齢を言えるのは、4分の1程度であろう。そして、最も広い定義を取ると、この昭和21年から始まって、昭和29年までに生まれた世代を「団塊の世代」としている。となると、私の学年は団塊の世代のはしりと言うことになる。また「戦争を知らない子どもたち」のこれまたはしりである。確かに、私たちの世代は、戦中、戦後の節目である昭和20年8月15日の後に誕生している。

だが、長崎市、広島市の私たち同学年はそれだけではない。もう一つの戦中、戦後の節目があるのだ。
それは、長崎市の場合、昭和21年6月3日までに誕生した者は、母親が原爆に被爆していたなら、被爆当時、母の胎内に生命が宿っていたとして、胎内被爆と認定されている。いわゆる被爆者なのだ。そして、それ以後に誕生した者は被爆二世である。広島市も数日違うであろうが同じことである。だから、私も被爆二世のこれもまたはしりである。
そんな悲惨な戦争の影響とその後の混乱の中、生を受けた私たちは、戦後の貧困、すし詰め教室、受験戦争、学生運動、高度経済成長、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック以後の世界的不況といった戦後の成長と繁栄、そして今、衰退の陰り...、その渦中に常に身を置いてきた。これまでの人類史の上で、わずか60年あまりの間に、この様な体験をした世代、民族は、私たち日本で生まれた団塊の世代を除いていないのではないだろうか。

そんな時代を生きてきた私は、大学生活は大阪で過ごした。関西の空気が何かしら肌に合っていた。好きだった。そして、大学卒業後は、父に言われるままに長崎に戻ってきた。そんなことで、生まれて50年近くは、日本の中心である東京とはほとんど無縁の日々であった。
そんな私が、故三村孝一先生(熊本県)から、些か強引に日本精神科病院協会の委員を務める様に仰せつかり、40歳後半になってやっと、上京の機会が多くなった。50歳代半ばには、多い時には毎週の様に上京していた。そんな中、東京在住の中学、高校の友人、G君こと郡家敦君と再会。その彼に依頼した当院ホームページのリニューアルに伴い、彼はそこに私のブログの立ち上げを提案してきた。病院の運営、患者の診療、日本精神科病院協会の委員会などの仕事と、多忙な中で書けるわけがない。書いたとしても続けていく自信はなかった。しかし、それから一年、時代が良かったのだろう。私のこれまでの仕事に関連すること、また最近、日常の生活の中で思い、培ってきたことに関する話題が、この一年間に多かったことも手伝い、思った以上にブログを更新することができた。我ながら驚いている。
ただ、この一年間のブログの内容を読み返してみると、私のこれまでの精神科医、精神科病院院長としての基礎作りの場と言っていい、あの大阪の学生時代の思い出なり、出来事には皆無といっていいほど触れていない。何故だろう。
あの時代は、私が上阪する前年が東京オリンピック、卒業前の年に大阪万博が開催されている。いわゆる戦後日本の青春時代であり、同時に学生運動も活発だった。私はそんな活動には関心がなかった、と言うより「権力に立ち向かうなら、もっと力をつけてからやれよ...」といった冷ややかな思いで眺めていた。そして、思った通り彼らの多くは、その後、運動にも挫折し、高度成長下の中で、忠実で、優秀な企業人、官僚となり、中には今、逆に権力の座に居座ったり、あるいはすり寄っている者が少なくない。
だからと言って、私は勉学に勤しんでいたわけではない。麻雀と酒とラグビーの日々であった。阪急電車の踏切の向こうに見た都会の大きな夕日が、鮮明に記憶として残っている以外は、ただ、だらし無い、やや無頼漢な若い時代のことは、まだ語りたくないのかもしれない。
そんな青春時代がブログに登場する前に、この一年間ブログに書きためたものを本にして出版してみようと思っている。今、10年ほど前から、私が幾度か取材に協力してきた医療ジャーナリストにお願いして企画書を作成してもらっているところである。

やはり、昭和の世代の人間は、まだまだ、本に愛着がある。出版されたら、是非購入していただきたい。そしてまた、新刊図書を手にするワクワク感も楽しんでもらいたい。

*これまでのブログは、西暦で表記してきたが、今回は元号で表記している。