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エッセイ

アルコール依存症に限らず、依存症者の治療、回復の難しさは、自らの病を認めないところにある。つまり、「否認」が最大の治療、回復の上でのテーマであることは、これまで繰り返し語ってきた。そんな「否認」に関する解説、さらには解決策が、養老孟司著の『死の壁』の中でふれられている"死の人称"を読み解くと分かってくる。

『死の壁』によると、「一人称」の私は「ない死体」である。「二人称」のあなたは「死体でない死体」なのだ。そして、「三人称」の彼らは「死体である死体」となる。どういうことかだが、「一人称」、私の死体は私自身絶対に見ることができない。霊魂があれば別だろうが...。私の死体は私が見ることができない。だから、「ない死体」でいい。つまり、私にとって生きている間は、私の死体は存在しない。それから「二人称」だが、私が死んだら、うちのかみさんは「あんた〜」と呼びかけるであろう。そして、寝ている私を起こすように、私の体を揺するかもしれない。まだ「あなた(健三郎)」なのである。「死体」ではない。だから「死体でない死体」なのだ。それでは「三人称」の「死体である死体」はというと、テレビのニュースで、自爆テロの様子、あるいは災害の模様が報道されると、そこで横たわっている人々を観て、私たちは、「あっ、死体だ!」と推察する。その映像上の彼らが、あるいは瀕死の重症者であっても「死体である死体」として捉えるほど、我々は「三人称」の死体を「死体」として容易に受け入れる。我々にとって「死」という終末の現象は、それが身近なものであればあるほど、中々受け入れたくないものである。その現実には関わりたくないものなのである。

この「死の人称」を「アルコール依存症者」の場合について当てはめてみよう。かなりアルコールに依存した結果、社会から排除(社会的な死)されていたとしても、「俺はアルコール依存症じゃない」と言い張るのが「否認」である。これはまさしく、「ない死体」の一人称と同じで、「ないアルコール依存症」である。それでは次に、アルコール依存症の家族の方がよく取る言動について紹介してみよう。彼らは「うちの主人に限って!アルコール依存症だなんて。もしそうだとしても、私が支えて何とかすれば分かってくれる。」と言って、アルコール依存症の当事者が犯した問題の後始末を一生懸命なさる家族の方が多い。このようなご家族を我々専門家は、イネイブラー、共依存と呼んでいる。
しかし、そんな、「一人称」のアルコール依存症者自身、あるいは、「二人称」である彼らの家族は、街中で酒に酔って醜態をさらしている人を眺めたり、飲酒運転で捕まった公人の報道などから、「あの人、アルコール依存症(アル中)じゃないのかい...」と、いとも簡単に「三人称」、つまり「あるアルコール依存症者」ではないかと指摘してしまう。
ここまでお話すると、"死の人称"を使って、「否認」についての解説ができることがお分かりいただけたと思う。

それでは、次はこの「否認」の解決策である。
「死体」の「一人称」は、死んでしまったのだから仕方がない。しかし、「私はアルコール依存症ではない」と言い張る「一人称」である「ないアルコール依存症」の方は、これからも生きて、人生を歩んでもらわねばならない。多分「ない」とは、社会的死を意味する。それでは困るはずだ。ここで大切なことは「ない」をどう「ある」にするかである。
基本的に、この世の中は「ある」ものを「ない」ものにすることは比較的簡単にできるようになっている。だが、「ない」ものから、「ある」ものを生み出すのは相当の努力と工夫を必要とするのは、皆さん良くご存じであろう。
もしここで、「ある」と認めた「三人称」のアルコール依存症者が自らの「ない」自分のこと、そして、「ない」から「ある」に変わっていったことを繰り返し、繰り返し「ない」と言い張る「一人称」のアルコール依存症者に語りかけていったらどうだろうか。そう、そんな集まりが断酒会、AAといった自助グループの例会、ミーティングである。私はそんな集いの中で、当初、「私はアルコール依存症でない」と主張していたが、そのうちに「アルコール依存症の○×です」と言って、自らの体験談を語り始める「一人称」だったはずのアルコール依存症者を大勢知っている。

アルコール依存症、他の依存症者の回復の有効な解決策は、今のところ、この「ない」から「ある」への軌道修正しかなさそうである。
でも、この「否認」とその解決策を「人称形」で読み解くのはいいね。養老孟司先生に感謝!感謝!