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エッセイ

2001年6月8日、私は東京にある日本精神科病院協会会館で、午後から当時所属していた委員会に出席中であった。そこに、その日の午前中、大阪の小学校に精神科病院へ入院歴がある人物が乱入し、複数名の児童を死傷させた、との報が入ってきた。これが「大阪教育大学付属池田小学校事件」の私への第一報であった。
その後、事件の全容、犯人像がマスコミ報道を通して明らかになってきた。事件の経過はともかくとして、犯人の「宅間守」像である。識者が様々な角度から見解を述べられた。結果、彼は起訴され、死刑判決。判決後、わずか1年近くで死刑が執行された。異例のことらしい。彼は過去において精神科病院に入院している。かつ、その中には措置入院も含まれている。それにも関わらず、今回、彼は精神障害者が犯行に及べば適応される刑法39条の対象とはならず、起訴された。それは、刑法39条の要件を満たす状態ではなかったから、いや精神障害者ではなかったからである。よって、彼は起訴され、裁判を受け、彼が望んだこともあって、異例の速さで死刑が執行された。そして、その結果として日本国が行なった精神医療対策は、医療観察法を成立させ、それが今実践されるに至っている。ただ、それだけである。
しかし過去において彼は、自傷・他害の恐れのある精神病状態であるとして精神科病院に措置入院になっている。そこのところが、今一つ釈然としない。「宅間守」は過去に10数回の様々な犯罪歴があるが、そんな精神科病院の入院歴があるとして、不起訴処分を経験している。それが「池田小学校事件」の彼の犯行に何らかの影響を与えているとしたら、過去の措置鑑定の問題、措置入院の是非が全く検証されなかったのは納得いかない。

そんな不全感を抱えて日常の診療に携わっていたころである。親しくしている東京の医療ジャーナリストの紹介で朝日新聞の和田公一記者が私の前に現われた。当時、30代後半であった彼は、私からの情報を含めて幾つかの取材をもとに、「池田小学校事件」の焦点の一つであった精神医療と司法との関係を扱った企画記事「精神医療と法」を朝日新聞の一面をさいて3日間続けて掲載した。

話は少し遡るが、1997年当時、精神科領域では、精神科ソーシャルワーカーの国家資格化について検討が重ねられていた。そして、その法案が国会に提出されていたが、他の医療専門職からの意見調整に難航している中、私は日本精神科病院協会の一員として、厚生省(現厚生労働省)の担当者とその法成立に取り組んでいた。
その後、『精神保健福祉士法』は1997年12月12日に成立、1998年4月1日より施行された。そして私は、2001年から2007年まで、その精神保健福祉士国家試験作成にかかわる委員会の副委員長を6年間務めていた。
実は和田君は、1997年から朝日新聞東京本社社会部で厚生省を担当しており、彼の精神科医療に関する最初の記事は、1997年6月の「『精神保健福祉士』実現は急務/国家資格化で人材確保」であった。
申し訳ないが、私は、その記事を読んでいない。そしてその時は、彼とまだ出会ってないころであった。だがすでに、彼はマスコミ報道といった立場で、私が当時取り組んでいた『精神保健福祉士法』の成立に側面から援護してくれていたことになる。縁とはそんなものだろうか。

その後、和田君は精神医療に関連した「様々な出来事」へ取材の目を向け、民間警備会社の精神障害者の精神科病院への移送問題、国立療養所犀潟病院における入院患者の拘束中の窒息死、三重県の精神科病院で入院患者19名がインフルエンザで死亡、といった「出来事」、「不祥事」を記事にしてきた。そんな彼の報道記事は、「過剰報道」といった批判的な見方もされており、精神科医、とくに民間精神科病院では敬遠されている節があった。そして、2001年の「池田小学校事件」である。開かれた精神科病院とは、病院の中で行われていることを何でも見てもらい、理解を深めてもらうことである、といった私の信念からして、そんな彼からの取材協力をお断りする理由はなかった。

それから10年近くになる。東京と長崎といった距離の関係から、彼とその後、そんなに会う機会は多くなかった。しかし、電話やメールでのやり取りを通して彼の取材に協力する一方で私の考え方、思いもずい分と記事として取り上げてもらった。そんな彼の取材内容、そしてその結果の記事は、「過剰報道」とはほど遠く、むしろ精神医療への理解を求め、精神障害者への差別、偏見をなくすことを願ってのものであった。ただ、私の精神医療活動の中心に位置付けてきたアルコール依存症に始まるアディクション(嗜癖)問題についてはあまり関心を持ってもらえていなかった。
ところが、昨年(2009年)の春、「西脇先生、ギャンブル依存症の当事者に話を伺ったんですが、この問題は深刻ですね。連載をやりたいので西脇先生の意見も聞かせて下さい...」といった内容の電話がかかってきた。"そうだろう、これからアディクションの問題は、社会的にも、個人の心の問題としても大切なテーマになるんだよ"って、私は心の中で呟いたものである。
それは、2009年5月9日から5月13日の間、朝日新聞の "あなたの安心‟で連載された。私のコメントも取り上げてもらったが、あれだけ依存症に関心なさそうにしていたのに、色んな関係者への取材をまとめ、ギャンブル依存症の現状と今後の課題を上手く伝えてくれていた。プロとはいえ見事なものだ。
そしてさらに、暮れには、アルコール依存症の記事を書こうと思う、都内のアルコール依存症の治療に熱心な病院を紹介して欲しい、との連絡がはいってきた。"いよいよアディクションの問題にも関心を持ってくれたか"と、喜んでアルコール医療センターを持つ都内の精神科病院を紹介してあげた。それは、アルコール依存症の自殺問題にふれた内容で、そのアルコール医療センターで治療中の当事者からの声、うつ病などの重複障害のことが紹介され、さらに、飲酒欲求を減らす薬の開発にまでもふれた、医療と科学を担当してきた彼らしい記事になっていた。

ここまではよかった。次の依頼が大変だった。それはアルコール依存症治療を行なっている都内の精神科病院の紹介依頼があってからあまり日も経ってない、やはり昨年暮れのことであった。
「西脇先生、近々宮内庁から皇太子妃雅子さまの病状について、東宮職医師団の見解が発表されるんですが、その内容を読んでコメントいただけませんか」と、彼から電話がかかってきた。
"おいおい、そんなのは西の果ての民間精神科病院の院長がやることじゃないよ"と思いつつ、「分かった!」と返事してしまった。あの時、何故断らなかったのか分からない。そして、その日がやってきた。前日、和田君から電話で「先生、明日の朝、文書で発表されます。明日の夕刊の掲載です。発表文、FAXします。コメント宜しくお願いしますね」である。"おい、おい大丈夫かなぁ"...。2010年2月5日(木曜日)、幸い午前中に外来予約をいれてなかった。
FAXで送られてきた「東宮職医師団の見解」を読みながら、悪戦苦闘してポイントになる箇所を拾い出し、一方でパソコンにそのポイントに関する私の意見、感想を打ち込んで和田君に送信した。直ぐに彼から受け取った旨の回答と若干の確認の問い合わせの電話がはいった。そして、「今日の夕刊に掲載します」と...。
長崎では、夕刊紙は発売されていない。数日して送られてきた。宮内庁担当の記者の「雅子さま、着実に快復」の記事の下に「リハビリに大事な段階」と私のコメントが掲載されていた。和田君が少し手を加えて決められた面に収まるようにしてくれていた。
気を良くした私は、ブログに「雅子さまの心のリハビリテーション」と題して、字数の制限を気にしないで、私のこの「東宮職医師団の見解」についての思いを書いてみた。そして、それをメールに添付して彼に送信したのが2010年2月12日で、そのブログについての感想のメールを受けたのが13日だった。
"さて、次の依頼は何だろう...、ここまできたら何でも受けるぞ"と、昨年からの彼とのメール、電話でのやり取りが、何だか楽しくなってきていた。それから1週間後の2月20日、突然、彼が亡くなった、との知らせが飛び込んできた。脳出血だったそうだ。

彼は、「東宮職医師団の見解」のコメントを依頼するやり取りのメールで、月刊誌『精神医学』2010年3月号の特集:"総合病院精神科衰退の危機と総合病院精神医学会の果たすべき役割"の中で、依頼を受けて寄稿していることを伝えてきていた。その論文が彼のまとまった論文、あるいは論説の遺作となったはずである。そして、彼はその論文が掲載された『精神医学』誌を手にすることはなかった。
そこには、まず彼の取材体験を通しての、マスコミの精神医療への関心の乏しさと関わり方の問題にふれていた。その上で、総合病院の精神科医不足に留まらず、今日の精神科医の臨床活動への取り組み方、他の診療科との連携、地域医療における貢献のあり方に対する姿勢などについての問い掛け(提言、苦言?)が盛りだくさんの内容だと、私は受け止めた。是非、関係者の方々は読んでいただきたい。

あれは確か、彼が長崎に2度目の取材で訪れた時だった。私は「東京では、食べられない美味しい寿司をご馳走するよ」と、私のごひいき店『おがた寿司』に案内した。私の期待通り、彼はそこの新鮮な魚介類に舌づつみを打ち、良く酒を飲み、マスコミから見た精神医療の現状を熱く語ってくれた。帰りは些か酔いが回ったのか、やや千鳥足の彼を宿泊先のホテルまで送りとどけたものだった。
数日前、久しぶりに『おがた寿司』に出かけた。寿司をつまみ、ほろ酔い気分の私は「おい和田君、もしよかったら、俺が死んだら天下の朝日新聞に俺の追悼記事を書いてくれるかい」と語りかけてみた。だが隣の席に彼の姿はなかった。
和田公一、朝日新聞記者、享年47歳。順番を間違えているよね...。

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