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長崎の街から:その③

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(火)

04月

エッセイ

江戸時代の長崎は、文化、技術、嗜好品などの影響を中国(明、清)から色濃く受けてきた街であった。眼鏡橋を代表とする石橋群がそうだし、中華料理、それに卓袱(しっぽく)料理と、すでに2009年7月17日「長崎の街から」で紹介している。さらに工芸品、アクセサリーもやはり中国由来のものが数多く存在する。
その代表的な工芸品がべっ甲細工である。日本におけるべっ甲細工の存在は、奈良時代まで遡ることができる。だが、このべっ甲細工が日本で定着したのは、徳川幕府の鎖国政策下のことである。唯一の貿易港であった長崎のみが原料であるタイマイの甲羅を多く入手でき、長崎の丸山遊郭の遊女が装飾品として用いるようになり、そこから京都、江戸へと流行していった、といわれている。そして明治以後は、長崎で外国人のお土産としてべっ甲細工が好まれ、さらに戦後になると、日本の復興に伴い長崎の観光名産の一つとして、国内向けの需要が飛躍的に伸びた。

私の小学・中学校の同級生である藤田誠(喜山)君は祖父の代からこのべっ甲細工の職人である。彼もまた、祖父、父の跡を継いでべっ甲細工職人の道を選び、歩んできた。小学校時代は近所ということもあって仲もよかったが、中学校卒業後、疎遠になっていた。しかし50代前半より年に一度、小学校の同窓会が開かれるようになり、お互い必ずといっていいほど顔を出していたことから、最近また親しくしている。

2010年3月21日(春分の日)、そんな彼の実演会が行なわれるのを地元新聞の広報で知った。彼のべっ甲細工作品は、彼自身、よく身に付けており、目にしてきたが、彼の製作現場はまだ拝見したことがなかった。そこで、さっそく出かけてみた。
会場で作業中の彼に声をかけると「長崎で実演会やると、知り合いばかりやもんね」と、憎まれ口を叩きながらも、満更でもなさそうな笑みで迎えてくれた。手際のいい、手慣れた仕事ぶりだ。見事であった。
私は聞いてみた。
「おい、藤田。お前、小学校のころ、工作とか絵は上手かったかな?」
「いいや。」

また、彼が座って作業している横にショーケースがあり、そこに彼の製作した品が展示されていた。私たちは普通、べっ甲細工はマイタイの甲羅の琥珀(こはく)色の部分を多く使ったものが高価であると聞いている。ところが、その彼の展示品に甲羅の真っ黒な部分のみを使用した縦4~5cm・横7~8cmあまりの髪かざりがあった。細工が本当に繊細で素晴らしかった。値段を尋ねたところ100万円以上するとの返事がかえってきた。
そして、工具の一部は彼の祖父の代から使用してきたものもあるとのことで、その一つを見せてもらったが、鉄の部分が摩耗してボロボロになっていた。まさしく伝統工芸品だ。

現在、原料のマイタイはワシントン条約で輸入が規制されている。しかし、キューバなどでは蛋白源としてマイタイが食べられており、その甲羅は余っているのだが、それも輸入できない。このことを、ワシントン条約による捕鯨禁止と比較してみると興味深い。
17世紀から19世紀にかけて欧米では鯨の表皮から取れる鯨油から蝋燭(ろうそく)を作っていた。そのため盛んに捕鯨を行なっていたが、彼らは鯨の肉は食べないので、鯨油以外は放棄していたという。だが、日本における捕鯨は食用に留まらず、その全てを活用しており、骨からもべっ甲と同じように工芸品も作ってきた。今日、そんな日本の捕鯨活動の再開に強く反対しているのは、過去において200年間、鯨油のみを採取するためだけに捕鯨をしてきた欧米人である。そして今度はクロマグロだ...。
宜しかったら、2009年6月3日の「"撲滅" と"絶滅"ついて」を再読いただきたい。

藤田喜山は私に語った。
「息子はべっ甲細工職人をやりたかったばってん、原料が手に入らんとだから、継がせんやった」と...。
私の子や孫たちは年を重ねていくなかで、匠の技の職人が幼馴染みといった繋がりの友人を持てるだろうか。

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べっ甲細工の名工、藤田喜山さん