地鎮祭

04

(水)

01月

エッセイ

悦子は、長崎県の県央部にあるO市から、南部の県庁所在地の長崎市にタクシーで向かっていた。彼女は幾度となくそのタクシーの運転手に「O市に戻って下さい」と懇願した。しかし、運転手に「いい機会を福祉事務所の方からいただいたんだから、長崎の病院に入院しましょうよ」と諭され続けて、しぶしぶ私の病院を受診してきたのが、1990年1月だった。彼女の頭の中はただただ不安だらけだった。というのも、彼女はそれまでも幾度か精神科病院の入退院を繰り返してきた。病名は「アルコール依存症」だ。閉鎖的で、管理的な精神科病棟に嫌悪感を抱いていた。今回は地元の国立病院で離脱(禁断)症状の治療を終え、その後リハビリテーションの治療が必要と判断した国立病院の担当医が、福祉事務所に相談して当院への転入院である。O市の福祉事務所は、これまでの経緯から厄介だった彼女とこれで縁が切れればと思ってかこの転院には積極的であった。

それほど手に負えない彼女を受け入れる我が病院も単科の精神科病院である。彼女が躊躇して、不安に思うのも理解できないでもない。
だが、とにもかくにも彼女は診察室で私と対面することになった。私はアルコール依存症者に関しては、離脱症状などの精神症状を有しない場合は、任意契約のもとでアルコールを飲む自由も、飲まぬ自由もあることを認めた上でのリハビリテーション・プログラムを当時から構築していた。よって、彼女にも、離脱症状の治療も終結していたので、これからの入院生活は、外出もリハビリテーション・プログラムに支障のない限り自由であることを伝えた。それは彼女にとって、これまでの入院体験から、まさしく「狐につままれたような」私の告知だったに違いない。
そして、その日からの悦子の入院生活、3か月間は優等生だった。退院にあたっては、病院のすぐそばにアパートを借り、外来通院、自助グループ(断酒会)への参加を行うはずだった。しかし、それは1ヵ月も続かなかった。入院中、アルコール依存症という病について知識はしっかりと身に付けた。だが、その病からの回復のための知恵は退院後の外来通院、あるいは自助グループのなかで当事者との交流で培われるものである。そのためには飲まない自由を選択しなければならない。これがなかなか難しい。そんな時、その後も入退院を繰り返すなかで、上手くその知恵の大切さに気付くこともできるのだが...。
彼女も、それから5~6回入退院を行っている。長崎市内の他精神科病院にも同じように、いやそれ以上の入退院を繰り返してきた。しかし、その入院は何れも長くて10日、ほとんどが1週間前後だった。それはアルコール依存症の症状の一つである飲酒抑制不能状態による心身のダメージを改善するのには十分の入院期間であるが、先に述べた知恵を培うための新たなきっかけ作りには不十分な時間である。ただ、病院を次の飲酒するための体調作りに利用しているに過ぎない。そんな繰り返しは、どこの病院も好ましくないとして、受け入れを拒むようになった。
そして、1992年3月、悦子は自宅前で新聞紙を丸め、それにマッチで火を点けた。放火である。彼女は近隣の住民の通報で警察に身柄を確保された。警察経由で病院(医療化)へ...。厄介なアルコール依存症者の常とう手段である。もちろん、市内の他の病院は警察からの入院依頼を拒んだ。私はその時、まず受診してもらうことにした。入院の決定は診察の結果である。この時点で、彼女自身もだが、保護していた警察官も入院できると判断したようだ。しかし、私は受診に応じただけだ。診察の結果、毎日通院するように指示、指導した。彼女はその日、近隣住民の冷たい視線の待つアパートに戻って行った。

悦子は、1942年O市で生まれている。当時O市には東洋一の海軍航空隊の基地があった。そこで両親は旅館を営んでいた。旅館は航空隊の将兵の家族が面会に訪れた時に宿泊、利用されていた。そのため、彼女が生まれた当時、不足がちになっていた食糧、酒類は、軍から提供され不自由することはなかった。それどころか、父親は容易に手に入る酒を毎日朝から飲み続け、旅館の運営は、6人の子育てを行いながら母が仕切っていた。しかし、基地の街である。空襲が激しくなり、強制疎開、旅館の取り壊し、そして終戦...。その後の悦子の家庭は、その時代の多くの国民が歩んできたのと同じ道を歩むことになる。
悦子も高校を中退してと京都のゴルフ場のキャディーとして、O市を離れる。彼女は職場では高い評価を得て、20歳代で仲間のキャディーを取りまとめ、指導をする立場に就くことになった。当時、父を亡くすも大酒飲みで母に苦労をかけ続けた父の死は悲しくなかった。しかし一方、20歳代で管理的役割を任された重圧から逃れるため、今度は彼女自身が酒を口にするようになっていた。その後、兄弟(姉妹)のなかで悦子を最も可愛がってくれていた母が倒れた。京都の仕事は面白かった。だが、母の介護のため帰省を選んだ。その頃から徐々に酒量が増していった。そして、彼女が40歳の時に母は亡くなるが、すでにその頃は精神科病院の入退院を繰り返し、兄弟(姉妹)からも疎まれるようになっていた。

悦子は、1992年3月、私の指示に従って、警察官と一緒に受診した日から、当初はかなり辛かったが毎日通院、在宅でアルコールを断った。そして断酒会に入会。断酒会では女性の当事者が集う「アメシスト」の立ち上げにも尽力した。そして今、彼女は私ども病院が所在する町内の老人会会長を務めている。高齢化のすすむ町内ではなくてはならない存在である。
2011年春、当院では老朽化した旧管理棟を解いて、新病棟を建てるべく地鎮祭を執り行った。そこで、地元町内の自治会役員の方々をお招きした。もちろん、老人会会長の悦子にも出席してもらった。その地鎮祭が行われた場所は、以前、彼女が私と最初に向き合い、さらに私が彼女に毎日通院を指示したあの診察室のあった跡だった。