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  4. 西脇院長に聞く-【第3回】志のない医者

インタビュー

――うつ病に限らず、いろいろな精神疾患の方が参加するグループ・ミーティングなど、さまざまな取り組みをされていますが、先生が精神科医になられた頃のお話しを聞かせてください。
やはり、問題意識や志を持たれて精神科医を目指されたのだと思いますが...。

西脇:いやいや、志を持って精神科医になったら駄目なんです。
俺、志もなんにもなかったもん(笑)。

――な、なんにも...?

西脇:本当(笑)。

――何かほかにやりたいことがあった、とかでしょうか?

西脇:当時は昭和40年代だったから、高度経済成長のころなんですよ。で、いわゆる経済成長のためには海外に進出したりとか、いろいろ商談やったりだとか...。だから、やっぱり商社マンだとか、外交官なんて絶対なれっこないけども、そういうふうに海外に出ていくような仕事をしたかったんですよね。
でも、父親が昭和32年に病院を建てましたから、僕が10歳のときなんですよね。だから、精神科医にならなきゃいけなくなった。

当時の精神科はさっき言ったみたいに、統合失調症の患者さんが中心で、当時はまだ薬もなくて、病院に長期入院させる。いわゆる病院管理の親方みたいなもんですよね。

――なるほど。

西脇:で、若い頃、俺は医者になったらそんな風にならないといかんと思ったら、もう嫌になって。
自分の将来、50代、60代のことなんてあんま考えたくなかったけど、今になったら、結構、50代、60代面白いんですけどね。

――今は楽しんでらっしゃるんですね。よかったです(笑)
憧れだった海外には、行かれることもあるんですか?

西脇:大学卒業して、長崎大学の精神科の教室に入ったときに、3回、教授のかばん持ちで海外の学会に行ったかな?
だけど学会にはほとんど出ないで、ハワイであったときはスキューバダイビングして。

――楽しそうです(笑)

西脇:ウィーンであったときは、ウィーンのアルコール依存症治療専門の病院を現地在住の日本人の方にお世話になって見学。それから、学会には出ないでそのままパリに行って、ルーブル美術館に3日間通ってたかな。そんなことばっかりしてました(笑)。

でも、当時の思いが、この病院に反映されてる感じがするんですよ。
当時、ウィーンなど、ヨーロッパの精神病院っていうのは古い建物を使っているのがあるんですね。
ウィーン市立精神病院なんてのもそうでした。そこはゴッホも入院した病院なんですけどね。
でも、そういうところね、施設見学をさせてもらえなかったんですよ。何故か、立派な礼拝堂だけ見学できたんですけどね。多分、ほとんどが長期入院の荒廃した患者さんだったんでしょうね。
だけど調べてみると、地域地域に疾患別、あるいは病態別の専門病院があるんです。今もそうですけども、私は依存症の治療に関心があったから、先ほどお話した現地にいる日本の方にお願いして、アルコール依存症の専門病院見せてもらったんですよ。
そしたら、それが素敵なんです。そして、それが、今のうちの病院の雰囲気にちゃんとなっているんですよ。

――どこかにそのイメージが残っていたんでしょうか。

西脇:はい。
で、ああ、こういう病院建てたいな、っていう感じが、今になるとあったんでしょうね。
それから、一番面白かったのはね、ウィーンなんかの街を歩いてると、自動販売機がないのよ。でも、アルコール依存症専門病院にはあるんですよ。

――街中にはないのに、病院にはある?

西脇:アルコール以外の清涼飲料水とか、ミネラルウォーターの。
それから、普通、レストラン行って、ミネラルウォーター頼むと、必ずお金かかるじゃないですか。でも、そこでは無料で飲めるんですよね。
だから、アルコール、つまりワインが生活の中に溶け込んでる社会、そういう中でアルコール依存症になった人が回復するためには、まず、治療の場所ではアルコール以外の飲み物だったら、どうぞご自由にっていうふうな感じなんですよね。

――当時から依存症治療に関心を持たれていたということですが、もともとのきっかけはなんだったんですか?

西脇:依存症に興味を持ったのは、僕、そんなふうにして、志もなんにもなくて精神科医になったでしょ?
僕が精神科医になった頃は、統合失調症、当時は精神分裂病ですが、その治療と研究がメインで、その精神分裂病が、生物学的にも精神病理学的にもどういうふうな状態なのかを解明するのが主流だったんですよ。

で、そのより良い治療とは、治療環境は、といったことが、今以上に盛んに研究され、議論と実践がなされていました。
僕はその中に入っていったら、たぶん日本の精神科医の中でビリから3番目ぐらいだろうと思ったんですね。
治療、研究する能力なんてとてもない、と。

――ビリから3番目...。

西脇:そう。で、仕方ないか、いいかと考えてたんです。
志がなかったからよかったんですね。
でも、この前亡くなられた、なだいなだ、作家の...。
彼も精神科医なんです。実は、彼はアルコール依存症治療の草分けの方なんですよ。

――そうなんですか。

西脇:ええ。
で、ある本に彼が書いているエッセイがあったんです。
そこに、彼が担当して、回復したアルコール依存症の患者さんから、『先生は、依存症の治療では、日本の3本の指に入りますね』と言われたところ、なだいなだは、『うん。依存症の治療をやってるのは、今、日本には5人しかいないからね』って応えた、と書いてあったんです。
それを読んで、「しめた!」と思いました。それだったら俺でも10本の指ぐらいに入れるぞ、ってね(笑)。

――トップテンに食い込めると(笑)

西脇:そう、そう。

――アルコール依存症という病気自体は昔からあったと思うんですが、その治療をする医師が少なかったのはなぜなんでしょうか。

西脇:その頃は、もう治せないものだから、入院させても、退院させたら、またすぐに飲み始める、って思われてたんです。
本当は治せないのは当たり前なんですがね。
回復できるかどうかなんです。

――アルコール依存症の回復率というのはどれくらいなんですか?

西脇:だいたい3割ぐらいだと言われてるんですけど、回復するのは。
ただ、最近は、新しい薬が発売されて、その飲酒する意欲を抑える薬で4割ぐらいになっているといわれてます。
でも、当時、私がアルコール依存症に関わりを始めたときは、その関わった患者さんで回復される方がものすごく多かったんです。
それで、"俺は名医だな"と天狗になりました。志ないのに(笑)。

で、ずっと彼らがうちの病院で週一回始めた集い(夜間集会)に通ってきてくれたり、自助グループの断酒会だとかAAだとかに参加される方が増えたんですね。
そういうところに僕も出ていって、ずっと話を聞いてると、どうもアルコール依存症に関わった精神科医が僕が最初で、長崎県内で一人だけだったんですね。

――たった一人。

西脇:だから、あの若い医者を駄目にしちゃったら、もう俺らを支えてくれる医者が、いつ出てくるかわからない。いなくなってしまう、と。
だから、あいつのためにやめてやろうと、患者さんが思ってくれたんですね。

――なるほど。

西脇:だから良かったんですよ。
なのに、僕は名医になったみたいな気になってね。
で、仕事やる気になっちゃったんですよ。志もないのに(笑)。
で、ずっと依存症治療をやっていると、どうも依存症の方の「しらふ」での生き方が、やはり几帳面で、生真面目で、働き者なんですね...。
よく家族の方がアルコール依存症の方を連れてくると、「このお父ちゃん、酒さえ飲まんやったら、よか人なのに」って言うんですよ。

――確かに、よく聞きますね。

西脇:それで、どうもね、アルコール依存症は、うつ病と親和性があるな、と思ったんですよ。

――違う病気だけれど、共通する部分があると。

西脇:だから、西棟を新しくしたときに、うつ病の患者さんとアルコールの患者さんとを一緒に入院していただいたんですね。
そしたら、なんかうまいこといって、うつ病の患者さんの復職プログラムとかいろんなこともやるようになって。
それにね、アルコールの患者さんだけだと、お酒切れるとすぐ退院していくでしょ。そうすると、ベッドが空くんですよ。で、病院がもうからないんです。
だから、そこにうつ病の患者さんを入れるんですよ。
そうすると、だいたい病棟が埋まるんですね。

――病院の経営的にも助かると。

西脇:そう、結果的に良かったんです。
でも、これも志がないんですね(笑)。

目次

【第1回】疾病構造の変化と西脇病院の変化
【第2回】いいストレスと悪いストレス
【第3回】志のない医者
【第4回】「普通の」精神病院