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文化は法に勝るのか?

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(月)

04月

エッセイ

人類とアルコールとの関わりは約6000年前といわれている。
当時は貴重な恍惚感を与える飲料として、宗教儀式、祭事の時に使用され、その行為は今日まで、冠婚葬祭に受け継がれている。そして、薬物であるにも関わらず正常使用として、次第に日常化し、それは飲酒文化として日々の生活のなかに取り込まれていった。日本におけるその代表的な行為はお酌である。宴席で前におかれた二合徳利を二人の客人が相互に注ぎ合う行為。これは二合の酒を一合づつ平等に飲むことを意味する。それは、一人が飲みすぎないといったことで、健康飲酒にも繋がる。他にも様々なお点前→建前→作法が存在していた。そのような文化の下で飲酒する限りにおいては、皆無とは言わないがアルコールに関連した問題は今日ほどではなかったのである。だから、作法以上の法の存在を必要としなかった。それが、問題として取り上げられ始めたのは何時ごろからであろうか。産業革命と時を同じくし、蒸留酒が大量生産可能となった。なかでもオランダで生産されたジンが、産業革命の最先端を走るイギリスに輸出され、そこでイギリスの劣悪な条件下で労働を強いられる労働者の癒しの術として盛んに愛飲されだした。結果、そこで様々なアルコール関連の問題が表面化するようになった。

以後、近代化を推し進める国々では、同様にアルコール飲料の大量生産、大量消費の時代に入ることになる。そうなると、これまでの飲酒文化における作法では対処できない状況が発生するようになった。それは、その地域、地域で培われてきた飲酒文化の衰退、形骸化を意味する、といっていいだろう。そこで、様々な政策(制度)が講じられ、法の整備が行われるようになった。まずは、財源確保である。つまりアルコール飲料に税を課すことである(酒税)。今日の飲酒による健康被害、飲酒運転等の社会問題を踏まえると、酒税の増税にマスコミもあまり異を唱えるべきではないと思うが、先で述べたように日々の生活に深く根ざしているアルコール(お酒)だから、増税反対のキャンペーンが張られるのが常である。この財源確保に一歩踏み込んだものが、総量抑制である。これはアルコール度数の高いアルコール類は税率を高くするというものである。一見健康被害等に配慮しているようであるが、ヨーロッパではワイン産業の擁護のために行われていると聞く。また金主政策の代表的なものとして、1927年にアメリカ合衆国で施行された俗に言う禁酒法(正式には合衆国憲法修正第18条)である。しかし、これも個人の飲酒行為を禁じたものでなく、製造、運搬、販売を禁止したものである。だが結果として、ヤミ酒が横行し1930年代初頭には撤廃されている。日本では1980年前後に当時の厚生省の後押しでアルコール健康医学協会が適正飲酒を提唱、休肝日を設け、日々の飲酒量を適正な量にと、いった啓発運動が行われた。その後の効果の程は定かではないが、某有力飲酒メーカーは当時有名女優を起用して「チョッと愛して、長~く愛して」といったコピーでCMを大ヒットさせている。適正飲酒といった表現より馴染みやすいコピーである。私には、この二つの表現(適正飲酒と「チョッと愛して・・・」)を比較することで、何か、今日の日本のアルコールに関連した問題に対する対策の難しさを感じさせられて仕方がないのである。

実は、アルコール飲料における様々な、そして多くの健康被害、社会問題は、タバコ、大麻の比ではないのだが・・・。そのわりには、飲酒に関する法や条例の強化については最近飲酒運転の厳罰化に踏み切ったものの、タバコ、大麻ほどではない。マスコミあたりのバッシングもしかりである。何故だろう。それは、我々とどれほど長くお付き合いしてきたかの差にすぎないと思う。つまり、我々の生活様式のなかに如何に長く溶け込んだかである。だが、そこで培われてきたより良い飲酒文化は、今では衰退、形骸化しているにも関わらず、マスコミを始め、我々はまだ「酒は百薬の長」といいつつ、より良い文化が存在していると幻想しているに違いない。そうなると、文化は法に勝るということになる。

長いお付き合いのなかで食文化に深く結びついたアルコール。そこがタバコと大麻の違いかな。

*関連図書:「そこは自分で考えてくれ(暴走する正義ーP190~P202)」池田清彦著(角川学芸出版)