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エッセイ

西脇病院では、患者、家族に対して定例の集いを幾つか行っている。それは無料で参加できる。そして、当事者グループにも定期的に病院施設内をこれまた無料で提供している。まぁ~デパートでよく行われている地方物産展のツマ楊枝でつまめる試食品のようなものだ。
中々好評である。常連さんも多い。初めての参加者、受診予定のご本人、家族の方には、精神病院への抵抗、敷居の高さを緩和させてくれる。いわゆるそんな初心者の方の気持ちをほぐしてくれ、ご本人の受診、入院を決断させてくれるキーパソンが、常連さんなのである。

そんな、無料のオプションの事始めは、よくよく考えると、ずい分昔のことになる。

夜間集会、毎週一回行ってきて、37年になる。最初は6人部屋の病室で入院中の6人のアルコール依存症者と私、計7名で始めた。ベッドの上に皆あぐらを組んで語り合っていた。当初の7名で、今も夜間集会に参加しているのは、当事者の漁師の末さんと私、2人だけになってしまった。

1975年4月から1976年3月にかけて、私は、地元大学附属病院精神科よりの派遣で単科の県立精神科病院に赴任していた。仕事をしない、いや、できない私を見兼ねた副院長が、1976年2月に行われた「第一回アルコール中毒臨床医研修会」への参加をすすめて下さった。私は二つ返事でそのすすめを受け入れた。理由は研修の場が神奈川県だったからである。私は関西の医科大学を卒業している。だから、東京、神奈川といった関東をほとんど知らない。たまたま、その当時〝たそがれ横浜" とか"横浜~♪横須賀~♪"などといった歌がはやっていた。横浜、横須賀の近くなら行ってみたい。ただそれだけであった。

今もこの研修は続いている。研修の場所は、今も当時も国立久里浜病院(現:久里浜アルコール症センター)である。期間は、第一回目だけは2週間だったように記憶している。ただ、私はこの久里浜の地がどこにあるのか詳しく知らなかった。そこは三浦半島の先端で、その先は太平洋、長崎よりももっと田舎だった。とにかくそこで2週間の研修を受けた。私が思い描いていた期待は見事に裏切られた。そんなことだから、研修に身が入るわけがない。今も研修内容はほとんど憶えていない。ただ、研修最終日だったと思う、この研修を企画、実現された当時の国立久里浜病院河野裕明副院長、そして病棟スタッフと、退院し、街で暮らしながら、回復を図っている患者OB(その多くは地域の自助グループである断酒会会員)との交流会というか、懇談会が行われた。その集いに、もちろん私たち研修生も参加した。
懇談会の中ほどで一人の患者OBがほほ笑みながら語った、「私は3年も止めたので、ぼちぼち酒を飲もうかと思ってます」と...。私は当時、1年以上アルコールを断ち続け、治療につながっている患者を知らなかった。"おいおい折角3年も止めてるのにそんなこと考えて、治療者の前で口にしてもいいのかい...?"と思いながら、河野先生の反応を確かめたくて、彼の方へ視線を移した。河野先生も笑顔で、ただ黙ってニコニコされているだけだ。別に何の指導、助言もなさらなかった。"えっ~これでいいのだ"。
となると、私は、この"これでいいのだ"をやりたくなった。

研修を終えて県立の精神科病院に戻ってきたが、その年の4月には地元大学付属病院精神科へ再び帰らなければならなかった。大学病院は総合病院である。精神科病棟は50床あまり、アルコール依存症者の入院は、年に数名だ。だが、その頃の私は"これでいいのだ"をやってみたかった。大学病院の精神科病棟では無理だ。ただ、大学病院に勤務していると週に1日、民間精神科病院に非常勤で勤務することができる。それも当直も行わなければならなかった。そこで、私はその非常勤の勤務先を西脇病院にした。そして、当直の時間を利用して"これでいいのだ"を6人の患者と始めた。それが35年続いて今も行われている夜間集会である。

その後、様々な集い、集団療法が、これまた、色んな職種で行われている。その多くが、外来者、家族に対しては、無料のオプションである。

そこで関わるスタッフに伝えることは
『 治療者と当事者の認識の違いを理解すること:
つまり、集い、集団療法が終わった後、今ひとつうまくいかなかったと不全感をしばしば持つことがある。しかし、気にしないことだ。意外と私にはあまり興味の持てなかった体験談の中に、その集団療法に参加の他の当事者には共感、感銘を与える体験談があるに違いない。だから、当事者間で分かりあえる言葉の力があることを信じて、なるべく邪魔をしないようにすること』

【小さなことを積み重ねるのがとんでもないところに行くただひとつの道だと思う】(イチロー)

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