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エッセイ

ジャーナリストの筑紫哲也氏が亡くなったのは、昨年の11月であった。彼は、我々団塊の世代の一回り上の世代で、早くからオピニオンリーダーとして、我々の世代、とくに学生運動に身を置いた者たちに何らかの影響を与えてきた人物である。亡くなるまでのこの20年間、TBS系の深夜報道番組ニュース23のメインキャスターを務めていた。
確か、6~7年前から、その番組で彼は、盛んに「スローライフ」を提唱するようになった。私は、はじめてその発言をする彼を番組で見た時、彼がテレビ局との間で意見の相違があって、降板の挨拶をしているのだと思っていた。何故なら、スローライフとは日が昇ると起き、日が沈むと床に就く、といった生活様式が基本にあると、私は理解していたからである。
そういったとらえ方でいくと、深夜23時の報道番組は、我々国民の生命、財産を守る必要、あるいは翌日の生活に支障をきたす事態が発生、またはその可能性がある場合、それを速やかに伝える番組としては価値があるが、彼の提唱する「スローライフ」、そしてやはり、彼が問題としている資源エネルギーなどを考える上では、些か問題のある時間帯の報道番組である。そんなことでテレビ局の制作側と対立があってのことと思ったのである。
しかし、そうではなかった。だが、彼も決してスローではない、むしろ秒を争う場に身を置く者としての自戒を込めてなのか、釈明といっていいのか、数年後に「スローライフ -緩急自在のすすめ」なる新書本を出版した。

読後の感想からいわせていただくと、私には正直よく分からなかった。まず冒頭から、「緩急自在」という両義性の喩えとして、
『二宮尊徳の銅像について、背中の薪を「労働」、手にしている本を「学問」の象徴と見なせば、その両方が必要だという「両義性のすすめ」と解釈することもできます。』
と触れている。
確かに、二宮尊徳は「労働」と「学問」に共に打ち込み、多くの功績をあげてこられたことで広く知られた方であるが、実直な方であったのだろう40歳代に深刻な"うつ病"に悩まされたことは、筑紫氏はご存じなかったようである。よって、二宮尊徳は緩急を自在に操れる器用な人物ではなかったようである。
まして、あの銅像もおかしい。何で「労働」と「学問」とを一緒にやっているのだろうか。まず「学問」をして、それから一息いれてボチボチ「労働」を始めるのが「スローライフ」というものじゃないだろうか...。

また、彼はこの著書のなかで、自ら身を置くジャーナリスト、ニュースキャスターという職業人としての「スローライフ」に関する体験はほとんど語っていない。ただ、章②で、ファストフードに対峙する、スローフードについて触れているなかで、そのスローフードの原点の一つとして北イタリアのプラという町を紹介するにあたって、次のように述べている。
『ジェノバ・サミットに取材のおり、サミットの取材とは別に、番組スタッフにプラに出かけてもらった。その結果をまとめて放映してもらった、あまり長くない特集(「筑紫哲也NEWS23」、TBS系)は、日本のマスメディアでこのことを紹介した初めての報道だと私たちは内心誇りに思っている(私自身がプラに出かけたのは、ずっと後のことだが。)』
と。
ちょっと待ってくれ。私の思いは先に述べたように、スローライフとは、日が昇ると起き、日が沈むと床に就くことが基本である。ただ、深夜(23時)の報道とは、我々国民の生命、財産を守る必要、あるいは翌日の生活に支障をきたす事態が発生、あるいはその可能性がある場合、それを速やかに伝えるのが責務であることは認めている。だが、この特集、わざわざ別の取材で来ていたスタッフを派遣し、それも早々に23時という時間帯に報道せねばならない程のことだろうか。ご本人がずっと後にでかけたそうだが、その時ご自分で取材して、ゆとりのある時にゆっくり報じても構わない内容ではなかろうか。それを、そんなに急いで深夜23時に特集を組んで報道したことを"内心誇りに思った方"に「スローライフ」を語る資格はないといっていい。

そして、彼はこの著書のなかで
『私はよく「いい加減」という日本語ぐらい日本人を表現している言葉はないと言う。「いい」は肯定的な表現だが「加減」と結び付くと否定的になる。ところが、お風呂のいい加減と、「いい加減」は肯定的へと反転する。両義性の文化を象徴しているような言葉である。』
と語っている。
おっしゃっていることがよく分からない。ただ、私が思うに、「スローライフ」に最も相応しい日本語は「いい加減」だと思う。誤解がないようにいっておくが、私はこの「いい加減」という言葉が大好きである。「いい加減」な生き方を努力目標にしているくらいである。
さて、そうなると、両義性ということだが、それは、彼がその後の章⑧で紹介している「強迫観念」と「いい加減」が、それこそ「緩急自在」の"急"は 「強迫観念」で、"緩" は「いい加減」といったところではないだろうか。それをTPOをわきまえて自在に使いこなす、ということが「緩急自在」だと思う。

それから最後に、私はこの著書を読みすすめるなかで、「スローライフ」と「ファストライフ」の「両義性」を示す表現は、四文字熟語ではないが、「本音と建前」が最も適した言葉だと思う。本音は、それこそ「スローライフ」、「いい加減」といきたいところだが、現実では建前として、「ファストライフ」、「強迫観念」の思考が要求され、実際にその行為が今日の十全とはいえないにしても「安全・快適・便利」な、我らの日常社会を維持、機能させているのである。などと思うに、「緩急自在」とは、何のことはない「本音と建前」を上手く使い分ける、ということだ。ある種厄介な生命体が異常繁殖している地球上で、その厄介者が何とか生存できているのもそんな「本音と建前」の使い分けを行っている多くの方々の支えのおかげである。では、そこで本音の「スローライフ」、「いい加減」を持ち出せると一番いいのだが...。
筑紫氏もこの著書の最後あたりに
『人は他者との関係なしには生きられないのだから、自分が生きたいように生きるためにも、他者、社会への働きかけをしていかねばならない。』
と述べている。ただ、この他者、社会への働きかけ、つまり、目配り、気配りが過ぎると二宮尊徳のように"うつ病"に悩まされることになりかねない。
となると、「スローライフ」に重きを置くことはただごとではない。そう現在の我々のライフ(生命・生活・人生)のあり方を根本から見直す作業をしなければいけないことになる。それは余ほどの覚悟が必要だ。

夜の夜中の報道番組で「スローライフ」を提唱し、その釈明のために?よく訳の分からない新書本を出版する程度でことがすむものではなさそうである。
まぁ~「スローライフ」は兎に角として、そんな提唱を夜の夜中にされた方の思想、信条にさして影響されず、これまで生きてこれた団塊の世代の私自身が幸いだった、と思うことにしよう。

参考図書:筑紫哲也著「スローライフ -緩急自在のすすめ」(岩波新書)