長崎の街から

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(金)

07月

エッセイ

一昨年、長崎で日本精神科病院協会精神医学会が開催された。テーマは「暮らしやすい地域と精神科医療」-DEJIMA(出島)の街からの発信-であった。このテーマ、とくにサブテーマが選ばれたのを知って、今の長崎、いや、400年近く変わらぬ長崎に相応しいテーマであると感心したものである。

そこで、まず私の知る江戸時代の長崎の街について、簡単に紹介しておきたい。鎖国政策下の日本において、長崎は唯一の海外に開かれた街であったことは周知のことである。だが、オランダ船は年に2隻程度入港するに過ぎず、その交易の主たる国は明、後に清(中国)であった。そこからの交易船は年間数十隻におよび、交易量はオランダを遥かに凌いでいた。また、オランダ商館員は約200名であったが、中国人は鄭成功の乱以後、多く長崎に移住しその数は6000名を超えていた。よって当時の長崎の街はオランダの影響はほぼ皆無で、異国からの文化、生活様式のかなりのものは中国から持ち込まれていた。現に、中国人が手がけた俗にいう唐人寺、石橋群が多く現存、長崎の代表的な料理は、中国由来の円卓で食事を囲む卓袱(しっぽく)料理である。また、医療でもジェンナーの種痘法以前に、患者の瘡蓋を鼻粘膜に貼り付ける漢方の免疫療法が行われていた。そして、天領長崎を治めていたのも、年に一回江戸より交替してくる奉行を補佐し長崎唐通事(中国の通訳)が行っていた。その多くはやはり鄭成功の乱後、長崎に定住した中国人であった。すなわち長崎の行政と経済は、長崎唐通事が長崎奉行、つまり江戸幕府の意向を受けて司っていたのである。
では長崎で暮らす町人はというと、キリシタンの潜伏を恐れた長崎奉行が、町内に相互監視の五人組制度、連座制を設け厳しい管理体制をとり、今に受け継がれている派手な「お宮日(おくにち)」、「精霊流し」も町人自らが神社仏閣を敬い、キリシタンでないことをアピールするための幕府向けの祭りごとであった。そういったことで、今日イメージする異国情緒豊かな街でも、暮らしやすい街でもなかったのである。
そして、「出島」であるが、オランダ商館員は3969坪(約1.5ヘクタール)の出島に留め置かれ、街中に出かけることは特別の行事を除き許されておらず、実は日本で初めて隔離対策がとられたところである。そこに滞在するオランダ商館員は「国立監獄のようだ」といっていたと...。
この真実を知ったら、今のご時世―DEJIMA(出島)...をサブテーマに使用するのはチョツトまずかったかな。

そうそう西洋医学を伝えた一人として有名なシーボルトもスパイ(調査員)だったという説がある。当時のヨーロッパは寒冷期の影響で食糧難であったらしい。そこで、東洋の小さな島国がそれなりに自給自足をしている、その現状の調査に派遣されたと...(オランダ人で出島から比較的自由に出られたのは、商館長と医師などの限られた者であった)。現に、以前ブログで紹介したお抱え絵師、河原慶賀には、当時日本人が食していた魚類、植物の精密な絵画を描かせ、本国に送っており、そして日本地図を持ち出そうとして国外追放になっている。医療活動はどうも片手間でやっていたようである。

長崎がオランダとの親密さを強調するようになったのは、多分、明治以後の欧米化の流れのなかで、長崎はその先駆けであるといいたかったからだろう。近著「江戸の病」(講談社 氏家幹人)でも、1862年(文久2年)の「坂下門外の変」で死んだのは襲撃側の水戸浪士、わずか数名。襲われた当の安藤老中も、軽いケガをした程度だったが、同じ年に流行したコレラとハシカでは、江戸だけでもなんと23万人もの人々が命を落としている、と記載されている。「坂下門外の変」なるものも私はほとんど知らない。だが、少し詳しい江戸末期について触れた歴史書には紹介されているらしい。このようにその時代、時代の歴史の真相、とくに庶民の生活、その生き様は、なかなか正確に伝えられないものである。もちろん、これから200~300年先、私の子孫だって、私が存在していたことなんて知らないだろう。
その頃、私の生きてきたこの60数年間の出来事としては、世界史的には、ケネディー暗殺、共産主義崩壊、9.11くらいかな。日本史では、高度成長程度ではないだろうか。
でも、もっと時代が進むと、人類は過去の色んなことに詳しくなっていると、私は思っている。何故なら、あのUFOは異星人ではない。タイムマシーンで未来人が訪れて来ているのである。きっと修学旅行、いや職員旅行に違いない。


唐通事会所跡。
昨年、市立図書館に新装された。それまでは小学校だったが、あの原爆投下後、被爆地近くの長崎大学医学部付属病院が壊滅状態になり、それに代わり、ここで被爆者の救護と治療にあたった。