娘の結婚

04

(月)

01月

エッセイ

2009年9月、娘(長女)が結婚した。
結婚披露宴の終盤に恒例ともいえる娘(新婦)から、両親へのメッセージが読まれた。一部紹介したい。

『...パパは小さい頃から仕事が忙しくて、一緒に過ごす時間は少なかったです。パパは子供たち4人に「自分の人生は、自分で決めなさい」と言い、何々しなさいと指示された事は一度もありません。何も関心がなかったのではなく、私達を信じ、私達の選ぶ道が幸せだと応援を続けてくれてました。...』

私は、何々しなさいと指示しなかったのではなく、そんな指示ができなかった、したくなかったのである。それ以前に、私は結婚をしたくなかったし、子供も持ちたくなかった、と言うより、家庭を持つこと、子供を育てる自信がなかったのである。だから、35歳で結婚、当時としては遅い結婚だった。

私は、6人兄弟の3番目として、薬問屋の家に生まれた。長兄は戦時中に結核性髄膜炎で幼くして亡くなり、長姉も終戦直後、食中毒で、やはり幼くして亡くなっている。
西脇の家は、母(義母)が心疾患を患っており、子供を授かることができなかった。実は、私の実家の実父と西脇の母は、兄と妹の関係で、さらに実家の実母と西脇の父(義父)は、これまた、姉と弟の関係にあった。そうしたことで、当初は私の姉が西脇の家の養女になる予定だったようだ。しかし、姉が亡くなったため、私が養子になった。それは6歳の時である。
当時、西脇の父は戦地から復員後、母の実家に身を寄せ今後の生き方を模索している風で、モラトリアムな生活を送っていた。そんなことだから、私は、しばらく実母と義母、実父と義父に囲まれて生活をしていたのである。義母の西脇の母は、病で床についていることが多く、私を溺愛していた。その西脇の母は、私が大学生の時に亡くなったが、実母は90歳近くまで健在であり、晩年になってその当時のことを、そばに居ながら母として振る舞えなかった辛さを、ポツリと語ったことがあった。そんな私の置かれていた立場を、小学校に入ってから、国語の時間の作文で何も知らないまま「二人のお母さん」と題して書いてしまった。それは、双方の母に余り好評でなかったことを記憶している。

そして、1957年、西脇の父は、母の実家の土地、戦時中は疎開先にしていた長崎市郊外の現在地に西脇病院を開設した。当初の開設資金は、やはり、母の実家が所有する長崎市内の一等地を売却して準備しており、無借金でのスタートと非常に恵まれたものであった。しかし、父は毎晩、晩酌をしながら、精神科患者はほとんど治らんのだから、食事だけ、気配りしておけばいいなどと、精神科とは、やり甲斐のない仕事であること、また、病院の経営が大変だと、酒に酔っては現状の不満を口にするのが常であった。そんなやり甲斐もなく、夢も目的意識も持てない病院を継承していけと毎晩言われて、一緒に食事をする私にとっては、たまったものではない。そして、父は、その頃全盛であったキャバレーによく通ってもいた。
後になって、私自身、病院の運営、経営に携わって分かることだが、父がやっていた当時、とくに初期の時期は、精神科病院は「治療」といった面では劣っており、「保護」・「収容」的色彩が強いものであったが、当時の家族の精神障害者を支える力、他の社会インフラの不備を考えると、社会にとって必要な場であったことは間違いない。また、経営的には自己資金で始めているわけで、その時代の右肩上がりの経済成長の中、ある意味、"精神病院ブーム"と言われたほどで、少なくとも成長業種の一つであったはずである。なのに、何であんな夢のないことを毎晩毎晩、酒に酔って愚痴り続けたのやら...。
妻の病、子供を授からず私を養子にしたこと、父の家系は「長崎唐通事」であり、姓を「何(が)」と名乗っており、それを誇りに思っていたにもかかわらず、母と婿養子となり「西脇」の姓を継いだこと等、と色々あったのだろう。しかし、今は知る由もない。
(*「何」は一般には、(か)と発音するのだが、父の実家の姓は(が)と発していた。それは格上を示すものだったとか...)。
一方、母はというと、自分の病が回復の兆しがみられないことから、私の成長が唯一の楽しみだった。ただ、それは、私にとっては、正直、些か疎ましくもあった。だからなおさら、高校時代には、私は養子であることは分かっていたが、それを口にすることはできなかった。とにかく楽しい夕食の時間は過ごしてなかったし、家庭も面白くなく、居心地のいい場ではなかった。そこで、高校では家にできるだけ遅く帰れるようにと、ラグビー部に入った。そして、そこでの合宿中も、他の仲間は早く家に帰りたがるのだが、多分、監督が合宿期間を延ばすと言ったら、私だけが喜んでいたに違いない。

ここまでお話するとお分かりいただけるだろう。私はかなり複雑な家庭環境、機能が不全状態の家庭に身を置いてきたのである。つまり、私もこれまでのブログでしばしば紹介してきたアダルト・チルドレン(AC)そのものなのだ。このことは、確かにこれまでの私の仕事には多いに役立ってきた。しかし、仕事外の日常では、いいしれない不全感、寂寥(せきりょう)感に襲われることがしばしばであった。だから、日頃子供たちに「自分の人生は、自分で決めなさい」と言ってきたのは、実は「自分のことで精一杯だよ、お前たちのことに構っている余裕などないよ」と、私は訴えていただけなのだ。申し訳ない父親である。

幸い、嫁いだ娘を始め4人の子供たちは、自分の人生は、自分で決めてくれているようだ。これからは今まで以上に、彼らが過ごす時の流れに要らぬ干渉はしない、邪魔はしないでおこう。そして、私自身が過ごしてきた舞台を上手く整理し、ほどほどの時に幕引きができるようにしたいものである。