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エッセイ

この正月に日本映画専門チャンネルで、『歩いても、歩いても』を観た。秀作だ。監督は、2004年に当時まだ少年だった柳楽優弥(やぎら ゆうや)に最年少のカンヌ映画祭最優秀男優賞をもたらした『誰も知らない』を制作した是枝裕和(これえだ ひろかず)である。
ストーリーは至ってシンプルだ。10数年前に溺れかけた少年を助けて亡くなった長男の命日、老夫婦が住む実家に巣立っていった娘夫婦と次男夫婦が訪れ、一日を共に過ごす。ただそれだけのことなのだが、そこでの夫婦、親子、嫁姑の関係、観ていて、ほほ笑んだり、せつなくなったり、「そうなんだよな」と、つい呟いてしまう映画である。中でも、実力者ぞろい、それもはまり役の俳優陣に囲まれ、母親であり、かつ姑でもあり、そして尊大さが抜けきらない夫に連れ添う妻でもある黄昏の時期の女性を樹木希林が見事に演じている。印象的だった。

ケーブルテレビの日本映画専門チャンネルであるため、同時に軽部 真一フジテレビアナウンサーからの是枝監督へのインタビューも放映されていた。そこで、この映画を海外に紹介するにあたって『歩いても、歩いても』の英訳に苦労したと是枝監督が語っていた。
なるほどだ。「歩く=Walk」は、本来その先に「到達地=Goal」があるものだ。でも『歩いても、歩いても』には、その「到達地=Goal」がない、見えない。そこで『Still Walking』としたそうである。直訳すると「まだ、歩き続ける」だ。英語力が極めて乏しい、私のあくまでもイメージだが、少しニュアンスが違うように思う。『Still Walking』は、やはり何かサファリ服を着こんでリックを背負った冒険家が、先にある未知の秘境の地か、あるいはオアシスを求めて歩いている、といった感じがする。だが『歩いても、歩いても』は、何処に向かっているかは分からない、でも、四季の変化を肌で感じながら、何かを求めて黙々とひたすら街道を歩く旅人を連想する。それは日本独特の言葉、言い回しのようだ。
そう『歩いても、歩いても』とは、日々歩き続けていることの積み重ねではないだろうか。そして、そこには「到達地=Goal」はないが、きっと歩くことに意味と目的を求めているに違いない。それは、依存症者が回復を図るための合言葉として使っている「一日断酒」、「今日一日」に相通じるところがあるようだ。

「先生、昨日入院した患者さんが、眠れなくて、落ち着かないのです」と、当直室の外から夜勤の看護師が患者の診察を求めてきた。寒い師走の夜だった。寝付いたばかりの私は、しぶしぶ起き上がり、パジャマの上にそのままズボンとセーター、そして白衣を身に着けて、その患者の入室している保護室(現在は隔離室と呼んでいる)へと向かった。薄暗い保護室の中には一人の男性が、確かに落ち着きなく狭い室内を動きまわり、意味不明のことを口走り、私の問いかけにも関心を示さない。夜勤の看護師によると、昨日アルコール依存症(当時はアルコール中毒)で入院してきた患者だそうである。"アルコールの禁断症状(離脱症状)が出ているな"と判断した私は、鎮静効果のかなり強い注射を打つようにその看護師に指示し、そそくさと当直室に戻り、まだぬくもりが残っている布団に潜り込み再び眠りに入った。
それは1972年12月の西脇病院での出来事である。
私はその年の6月に医師免許を取得、まだ医師になりたての研修医の身分であった。当時は、今のような研修医制度がなく、精神科病院などでは、新米の研修医が一人で当直ができていたのである。そういったことで、翌朝には、私は研修先の地元大学病院に出かけ、それから、その患者とは数年間、診察の機会はもちろん、会うこともなかった。

それがこれから紹介するY氏との最初の出会いである。その後、彼は翌年の1月に退院しているが、2月には再入院して8月まで入院。そしてその翌年の1974年の9月から1975年3月、さらに1976年2月から6月まで計4回の入退院を繰り返している。
私が、彼を再び診察したのは3回目の入院、それも退院前のことであった。その頃、私はまだアルコール医療に関心を寄せてはいなかった。しかし、長崎市の保健所で断酒会の例会が月一回開かれているのは、情報として持っていた。そこで、彼にその例会への参加をすすめてみた。彼は退院後、そのすすめに応じて、例会に参加するようになった。だが、彼は当時、吃音がひどく、指名されても、どもってしまいろくに発言できないまま、その例会での時間を過ごしていた。苦痛だったであろう。そして、半年近く通った後、12月23日、自分の誕生日だからと、一杯飲んでしまった。それからしばらくは抑制を掛けていたが、徐々に酒量が増し、翌1976年2月にはかなり深刻な禁断症状(捨鉢諧謔:すてばちかいぎゃく)を呈して入院となっている。
その頃の私はと言うと、地元大学病院精神科医局からの派遣で県立の精神科病院に勤務していた。そこでは、私があまりにも仕事ができないのを見兼ねた副院長の指示で、さらに私は国立久里浜療養所(現在の国立久里浜アルコール医療センター)にアルコール医療の専門医になるべく研修に出されたのである。研修期間を終え、帰ってくると、今度は大学病院の精神科医局に戻らねばならなかった。総合病院である大学病院の精神科病棟では、私が研修で学んだアルコール医療は、構造的、機能的に難しかった。だが、県費で研修に出してもらったのだ。何処かで還元しなければならない。こんなところは真面目である。
色々調べてみたところ、ある専門誌に久里浜療養所を退職した作家の"なだいなだ"が週に2回非常勤で通っている精神科病院での、外来通院を意識したアルコール依存症の治療の試みを伝える記事を目にした。大学病院の医局に籍を置くと、週に一回は民間の精神科病院に非常勤で出ることができる。これでやるか、と思った。当時、アルコール依存症を外来通院に繋げることなんか、県内の精神科医は誰も考えてもいないことであった。
どうせ出来の悪い精神科医である。だめで元々だ。

そこで、1976年4月に入って西脇病院の非常勤での最初の勤務日に、入院中のアルコール依存症の患者を全員、診察室に集め、これから、アルコール依存症の患者は同じ部屋で過ごしてもらい、そこで、退院後の生活について語り合い、退院後も私が当直の日は、その部屋に通ってきて欲しことを伝えた。そこには、重度の禁断症状からやっと回復の兆しを見せていたYさんもいた。もちろん、彼は私の提案に賛同し、退院後も毎週一回、私が当直の日は、夕食後の夜の集いに通ってきた。それが30数年間続けられている夜間集会である。10年前からは、新館のストレスケア病棟のホールで毎週火曜日に開催され、今では、アルコール依存症者に留まらず、薬物依存、強迫的ギャンブル、うつ病、摂食障害と、いわゆるストレス関連疾患の方々が毎回50名あまり参加する大集団療法になっており、「言いっぱなし・聞きっぱなし」、司会の私も一切助言をしないスタイルで続けられている。これも「歩いても、歩いても」と言っていいだろう。

Yさんの話に戻そう。彼は西脇病院に入院する前は、長崎湾外にある高島の炭鉱で働いていた。当時はエネルギー転換の時期で、石炭から石油へと炭鉱の閉山が続いていたが、高島は良質の石炭が採掘されることから操業を継続しており、まだ活気があった。そこで彼は家庭を持ち一女、一男をもうけた。そんなある夜、娘が熱発した。妻は娘を島の診療所に受診させようとするが、酒に酔った彼は、受診させる必要はないと妻の訴えを拒み続け、翌朝受診させた娘は、大学病院へと転送されるも、脳性麻痺となり、右半身が不十分で、知的発達も滞った状態で今日に至っている。娘に対する申し訳なさ、不憫な思いを、これまで彼は臆することなくみんなの前で語ってきた。そして、これからも語り続けるだろう。忘れることのできない、本当に酒の上での苦い思い出であり、重い十字架を背負い続けているのだろう。

彼は退院後、生活保護を切り、兄が営むハマチの養殖業の手伝いを始めた。しかし、夜間集会、地域断酒会に出席するための時間が欲しいといった理由から、ハマチの養殖の自営を決断した。武士の商法といったところである。ずい分苦労したようである。朝早くから、夜遅くまで海に出かけ、また、陸に上がると出荷のためにトラックを回すといったことを一人やっていた。資金繰りが悪くなって困り果てた時期もあったようだ。そんな合間を縫うようにして、断酒会(自助グル―プ)に通い、夜間集会にも近隣の仲間を誘って参加してくれた。そんな彼の頑張りで、出荷前には餌をやらず身を絞めた彼のハマチが、評判を呼んだ時期もあった。私も何度か家族で彼の養殖場を訪れたことがある。養殖場のそばで釣りをすると、養殖場にまいた餌が、網の間から流れ出でて、それを狙って天然魚が集まってくる。面白いように釣れる。痛快であった。釣りの後は、近くの海岸でみんなが釣った魚を彼が直ぐにさばいて刺身にしたり、鉄板の上で丸ごと焼いてくれた。実に美味しかった。一緒に連れて行ったまだ小さかった私の子どもたちは、今でもよく憶えている。余ほど楽しかったのであろう。
しかし1990年半ばに、それこそ苦労を共にした妻が倒れた。一命は取り留め、順調に回復はしたものの無理は利かない身体になってしまった。もちろん人を雇う余裕などない。人出が足りない。加えて、大手の水産会社が養殖業に参入してきて、経営が成り立たなくなった。そこで、2000年に入ってまもなくして廃業した。
Yさんは最近になって、当時を振り返り、その廃業の決断の後押しをし、その時期を支えてくれたのは、彼の息子だったと語っている。

月に一回、第四日曜日に地域断酒会の例会場として西脇病院の体育館を提供していた。それはYさんが断酒を始めて間もないころのことで、吃音はかなり改善していたが、まだ今のような流暢な語りではなかった。しかし、過去の自己の体験と今の思いを必死に発表していた姿を憶えている。そんなYさんと彼の妻の間に挟まれてチョコンと座って、テーブルの上に置いてある菓子とせんべいの盛られたお皿をジーッと見つめている男の子がいた。それが幼い日のYさんの息子である。
息子は私と同じ高校に進学した。私は先輩ということで保証人を引き受けさせられた。そして、東京の大学、企業へと就職、自慢の息子だった。ところがある日、Yさんが私のところを訪れ「先生、今日は診察ではありません。息子が会社を辞めて、中米のOXX~って国にボランティアで漁業技術を指導に行くって言っているんです。どうしましょうか」と、おろおろした表情で、せっかく集会で自らの体験を語ることで治っていた吃音がぶり返した様な語り口であった。
「息子は親の背中を見て育ったんだよ。行かせてやりなさい」と返答した私も、そのOXX~って国が何処にあるのか知らなかった。そこで、二人で世界地図を広げて探した記憶がある。その後、息子は帰国し、医療系の専門学校に入り直し、医療の専門職に就いた。そして、結婚、男の子を授かった。Yさんにとっては、初孫である。喜んでいたなぁ彼は...。本当に幸せだったんだよね。
しかし、それからしばらくして、彼から息子の妻の死を知らされた。癌であった。
その後、彼の姿を夜間集会であまり見かけなくなった。稀に出席した時に指名しても、発言に何かしら、以前のような覇気が感じられなかった。やはり、息子の妻の死を引きずってか、と私も「どうなんだ」と尋ねるのを控えていた。だが実は、そのころ、妻の体調が優れなくなっていたのだ。彼は、私にそれを語らなかった。そして、何時のころからか、ぴたりと彼は夜間集会に現われなくなった。それは数ヵ月続いた。30数年間続けている夜間集会、言いっぱなし、聞きぱっなしに加えて、出るのも自由、出ないのも自由で通してきている。気にはなりながらも、彼に連絡はとらなかった。そして、ずい分後になって、私は彼の妻の死を知ることになる。
さらに数か月後、彼は普段と変わりない様子で夜間集会に再び現われ、妻の死を伝え、以前と同じ様に自己の体験を語り始めた。少し変わったのは、判で押したように二週間おきの出席になったことだ。その理由は、孫の保育所への送り迎えなど、孫の世話で毎週家を空けられなくなったためであった。また、体験談の中では、断酒していても仕事中にしばしば妻に辛く当たってきたこと、もっと労わってやれなかったのかと、妻への懺悔の想いを語るようになり、一方で、孫の成長の様子を口にするようにもなった。最近では、二週間に一度、夜間集会に出かける時、「爺、今日は勉強会だよ、いってらっしゃい!」と孫が送り出してくれるそうである。
Yさんは今、想い出の中の家族、守るべき家族、そして頼りになる家族と一緒に穏やかな時を過ごしている。もういい、いばらの道は...。

こうしてYさんとの関係を振り返ってみると、私の方が、彼からずい分色んなことを教わってきた。後二年で出会いから40年になる。これからも主治医と患者の関係のままでいいものだろうか。まぁ~それは成りゆきに任せておこう。そうだな、暖かくなったらひとつ彼の住む漁港の町へ出かけ、彼が目に入れても痛くないお孫さんに会ってみよう。
きっと、30年余り前に、テーブルのお菓子とせんべいの盛られたお皿をジーッと見つめていたあの男の子にそっくりに違いない。

そして今しばらく、Yさんも私も『歩いても、歩いても』といきたいものである。

捨鉢諧謔:意味もなく爽快になり上機嫌になったり、突然怒りだしたりと、気分が一日中頻回に変わる状態。しかし、意識はもうろうとしている。アルコール依存症の禁断、離脱症状でみられる。だが、それが現われるのは、かなり重度の患者である。