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  4. 本当は、私が標的でなかった?

エッセイ

「君は長崎県の理事だね?」、「はい、そうですが何か?」、「長崎の〇〇先生はどこにおるかな!」、「はぁ~、先程会場から出て行かれましたが...」、「そうか~」。

20年ほど前の九州精神科病院合同理事会の懇親会場でのことだった。私は当時40歳代半、その歳で県の理事だったのは、私が精神科病院を運営する能力、才能に秀でていたわけではない。長崎県は原則、2年おきに理事が順番に交代する制度になっていた。今もそのようだ。
この時私に声をかけてこられたのが熊本県の三村先生だった。三村先生は、お目当ての長崎の〇〇院長が会場にいないと知ると、私に語りかけてこられた。これが、三村先生との出会いである。もし、そこに〇〇院長がいたら、その後、私の精神科病院院長としての生き方、過ごし方は、全く違ったものになっていたはずである。
三村先生は、私の横の空いた席に座られ、色々と尋ねてこられた。今では、その詳細は憶えていない。私はお酒のお相手をしているつもりであった。そして、別れ際に「君、日本精神科病院協会(以下:日精協)の委員にならんかね。長崎のH支部長には私から話しておく、いいね」と。かなり強引な方だ、と思いつつ「はい」と返事をしてしまった。それまでの酒を酌み交わしての会話は、どうも私の身元調査だったらしい。

その後、私は月に1回、東京の日精協会館に出かける羽目になった。所属する委員会は看護・コメディカル委員会である。当時の委員会での重要課題は、"チーム医療"と"精神科ソーシャルワーカーの国家資格化"だった。
私にはよく分からなかいことばかり。とにかく、委員会に出席しては、他の委員の先生方のご意見、情報を拝聴するだけ。「君は少しも発言しないね」と三村先生に、よくお叱りを受けたものだ。そんなこんなしながらも、任期は1期2年、3期6年までのところを、他の先生方の別の委員会移動、会長、副会長への昇格などのため、何も分かってないが古狸として、4期8年も務めねばならなかった。その間、紆余曲折の中で、「精神保健福祉士法」が国会で成立。精神科ソーシャルワーカーが、精神保健福祉士として国家資格を有するようになった。本当にそれは、三村先生のご尽力の賜物と言って言い過ぎではない。
それから、10年になる。彼ら精神保健福祉士の存在が、精神障碍者、そして精神科疾患の患者さん達の生活のあり方をどれだけ変えたことか、街で暮らす仕組み作りが容易になった。このことで、精神科医療の世界が大きく変わった、と言っても、これまた過言ではない。

8年間看護・コメディカル委員を務めた後、今度は通信教育部会へと、これも三村先生のお誘いで、移動し所属することになった。まぁ~、この頃には、私も積極的に発言をするだけでなく、三村先生にも食って掛かって、先生のご機嫌を損ねたり、困らせることも、しばしばであった。
そんな日精協の諸々の会議にも慣れ、全国の精神科病院の院長との親交も深まり、上京するのが心地よくなっていた頃だった。突然、三村先生から「君、来年度から、私の後任として、精神保健福祉士の国家試験作成の副委員長をやってくれんかね」と依頼、いや命令がきた。私はその時、心の中で叫んだ。"先生、私は今でも医師国家試験に落ちた夢を見るんですよ、そんな私が..."と。でも断れなかった。1期2年の条件で引き受けた。最初の打ち合わせ会では緊張した。精神科医療、精神福祉分野でご活躍の先生方が集まっておられる。何故、この場に私のような地方の民間精神科病院長がいるんだ、と思ったものだった。
それから2年、いやこれも3期6年のお勤めになった。しかし、国家試験作成メンバーである。多彩な能力と知見をお持ちの方々である。そんな方々との試験問題作成だ。それからの臨床現場の糧になったのは間違いない。それに加えて、試験問題作成だ、守秘義務の関係で、頻回な上京、奇遇なことにそんな機会の中で、中学、高校時代の友であるS君、G君に30数年ぶりに再会した。2人はワルだったが、東京に出て、それぞれの分野で大活躍中だった。おかげで、試験問題作成の仕事が終わると彼らと第二の青春を謳歌した。
そして、日本の情報発信の第一線でその才能を発揮し続けているG君から、病院ホームページに私のブログを立ち上げる提案をもらった。続ける自信はなかったが、もう3年続いている。月に1本から、多い時で4本のエッセイを書いて掲載している。始めてみると面白い。ものの見方、考え方が変わってくる。そのエッセイをまとめて、本も2冊発刊した。こんな楽しみも、根っこには三村先生の存在があってこそ...。

「君は長崎かい、...〇〇先生は?」に始まる三村先生と私の出会い。こうして振り返ってみると、三村先生は当時から、これからの精神科病院、いやそれ以上に精神科医療を担う若い人材を探しておられたのだ、と。ただ当初、私はその標的ではなかったみたいである。〇〇先生に会えなかった三村先生は、代わりに私を選んだに過ぎなかった。
そして、三村先生と私の最終章は、長崎から福岡に向かう電車と熊本から向かう電車での携帯電話でのやり取りだった。2人はその日、九州精神科病院協会の理事会に向かっていた。その時も、私は長崎方式の理事の持ち回りで、たまたま長崎県支部の理事であった。三村先生は電話を通して、「君、僕が推薦するから、日精協の理事をせんかい」と。その時期、三村先生の肺は癌に冒され、もうわずかな時間しか残されていなかった。電話から伝わる声も苦しそうだった。きっと、ゆれる電車の車両接続部のデッキで酸素ボンベを引きずりながら、かけておられたのだろう。
「分かりました。お引き受けします」と、私は返答した。しかし、全国の各ブロックからの日精協への理事推薦は、その推薦される院長(日精協会員)が所属する都道府県の承認が必要だった。私はその当時の長崎県支部から承認されなかった。それからしばらくして、三村先生は亡くなられた。よって、三村先生と私の最終章は結実しなかった。

そしてその後、私は日精協の委員の役職、精神保健福祉士の国家試験の作成作業も任期を全うして、今、自らの精神科病院のソフトとハードのお色直しを行っている。そのお色直しの過程の中で、三村先生のお考え、さらには先生を通してお付き合いをさせていただいてきた方々の知識と知恵が役立っている。
私の人生の後半戦は、三村先生の出会いに始まった、と言っていい。実に充実し、楽しい後半戦であった。いや今しばらく、もう少し頑張って、もっと楽しませて下さい。そして、何れその報告に伺います。ではまた、三村孝一先生...!!


三村 孝一:(1933年~2006年)
  城ヶ崎病院(熊本県)院長
  日本精神科病院協会理事
  熊本県医師会副会長など歴任

彼を好きな理由(わけ)
 僭越ながら、私と同じで「へそ曲り」と「やると思えば どこまでやるさ~♪」
とくに「やると思えば どこまでやるさ~♪」の業績として
① :1963 年(昭和38年)11月9日の三井三川鉱(大牟田市)炭じん爆発事故で被災したCO中毒患者の治療を担当。その後、後遺症に悩む患者の診療を続け、患者とその家族を支えてきた。その年月は40数年におよび、それは世界に例がないと逝去される数年前に各方面から多くの賞賛を得ている。 
② :「精神保健福祉士法」成立の立役者。おかげで、精神障碍者、精神科疾患の患者の生活の質に向上をもたらした。因みにソーシャルワーカーの国家資格は、現在も精神科(精神保健福祉士)のみである。