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これは私の仮説である

17

(金)

08月

エッセイ

以下のエッセイは20数年前に地元長崎の文芸誌に掲載したものだ。

『素直な子供には二つのタイプがあると思う。一つは大人、つまり親とか教師に対して素直に従う子供である(以下タイプAとする)。もう一つは自分の気持ち、感情を素直に表現する子供のことである(以下タイプBとする)。日頃私たちがよく「素直でいいお子さんですね」とお世辞で使っているのは、ほとんどがタイプAのことである。タイプBは逆に、自分の我を通してばかりで扱いにくい子として、なかなか「素直でいいお子さん...」の仲間入りはさせてもらえない。
だが、タイプAは将来、長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰といった生き方を選択する大人になる、と。一方、タイプBは、ユニークで独創的な発想で社会をリードしていく大人に成長する可能性を秘めている、と言えないだろうか。ただ、これまでの日本の社会ではタイプAが好まれてきた。
何故なら、明治以後の日本は、標準語を定めることで国民の全てが意思の疎通を深め、ある一定水準の教育を身につけ、欧米の知識、情報を学び、受け入れ、一致団結し、近代国家を、そして今日の豊かな社会を作り上げる必要があったからである。そのため、素直に共通の言葉を受け入れ、用い、さらに知識、情報をそれこそ素直に学ぶ国民が育って欲しかったのである。確かに、日本において、それは成功した、と言っていいだろう。また、その結果として、地方の方言はすたれ、伝統的なしきたりが多く姿を消していった。しかし、もしその試みが成功していなければ、日本でも、旧ユーゴスラビアのように民族紛争とまではいかないにしても、深刻な地域間の対立が起こっていたかもしれない。
では、こんな安全で豊かな日本の国の子供たちに何故今、個性と独創性が求められているのだろうか。
そして、『学校五日制』を導入し、豊かな個性と独創性を育むと言っているようだが...。土曜日を休みにする、それが本当に子供たちの独創性、豊かな個性を育てる目的であるのなら、せめて一般社会と同様に『週休二日制』と呼んで欲しい。
学校で五日間学ぶということ、それはタイプAを育む時間に他ならないからである。少し昔の日本、それも今よりもっと貧しかった頃、放課後、または夏休み、冬休みになると、町内の路地裏、空き地では、なまりのある言葉が飛び交い、古くからのなじみの遊びが繰り返され、そしてそんな中でタイプBが培われていたことを忘れてはいけないと思う。』

私はこのエッセイでタイプAとタイプBのどちらがいいかと比較しているわけではない。タイプAは躾け、教育の場で、そしてタイプBは子供たちの仲間内のなか、遊びの場で身に付けるものであることを伝えたかっただけだ。それは、タイプAが建前、タイプBが本音、ということで、その「本音と建前」を使い分け、競争、協力、妥協を身に付けるのが大人になるための教育の根幹ではないか、と言っているのだ。
しかし、最近の教育現場は、ゆとり教育、個性豊かに、果ては「オンリーワン」がいいと。
だが、この個性豊かとか、「オンリーワン」は、タイプBのことだ。これは本来、子供たちの仲間内の遊び、ハレの世界でその真価が発揮され、育まれてきたはずである。それを躾け、教育の場に取り入れるのは無理ではないだろうか。そして、その無理の行き着くところは「学級崩壊」だ。

あれだけ、個性豊かな子供を育てるためにゆとりが必要と言っていた日教組、教育委員会が「学級崩壊」にあたふたしているのは奇異で仕方がない。
こんなことでは「競争、協力、妥協」の精神は身に付かない。そんな子供たちが長じて、「競争、協力、妥協」を上手く使い分け、今日の社会、組織、対人関係のなかで身を処していくのは、はなはだ難しい、と言っていい。つまり、彼らにとって、この世は「生きづらい」だけなのだ。
それが、私が思うところの「自分に甘く、他人に厳しい」、「仕事はできなくなるが、自己の関心事に熱中する」、「生きたくないが、死にたくない」を特徴とする「新型うつ(病)」の増加の源泉だとしたらどうだろう。確かに「新型うつ(病)」は20歳代~30歳代に多いとされている。この時代はゆとり世代である。私はこの「新型うつ(病)」がこれからの日本経済に深刻な影響を与えると懸念している。
日教組、教育委員会の諸氏は如何お考えだろうか。